昨日の続き。
たしか、6月くらいから休部しました。
そして10月の工陵際(学校祭)を経て、
私は再び管弦楽に戻りました。
それまでは、サックスに拘っていたんですが、サックスを吹くことよりも、
皆と音楽をやりたいと思う気持ちのほうが強くなっていました。
管弦楽というスタイルではサックスは馴染めない。
ならば、馴染みやすい楽器を吹けばいいんだ。
そう考えて、私はクラリネットの練習を始めました。
似たような木管楽器ではありますが、
その実、大きな差があります。
息を入れるにもしっかりと芯のある息を入れないと、
クラリネットの低音は鳴らないし、スカスカな音になってしまいます。
指使いもサックスよりも複雑なので慣れるまでに大分時間がかかりました。
それでも、拙いながらにも人前で演奏することも出来ました。
まぁ、本当にひどい音ではありましたが・・・
弦楽器と合わせるのも楽しく感じられました。
しかし。
やっぱりサックスが吹きたくなり、
年度が明けてからは再びサックスを吹くようになりました。
それまでは、
「弦楽器とサックスというのは合わせるのが難しいものだ」
と考えて、嫌になってしまっていたんですが、
「弦楽器とも合わせられるサックス吹きになればいいじゃないか」
と、考えを改めたんです。
チェロやビオラの楽譜を読み替えて、
弦楽器と合奏するのが当たり前になってきた時期でした。
いま考えると、このとき色々な楽譜を読み替えていたので、
かなり勉強になりました。
CやF、B♭の楽譜を中心に読み替えてました。
ビオラの楽譜はハ音記号で書かれているので、
これを読み替えるのはなかなか難しかったです。
私が5年のときの演奏会。
いま考えると、一番情けない演奏会にも感じます。
当時、できることを出来る限りやろうと、
演奏会になんとか漕ぎ着けたんですが、
自分自身の音楽というものが無く、
なんとも寄せ集め的な演奏会を開きました。
今思い出しても、申し訳なく思います。
(とくにAmatiさんに。)
楽しいと思うことをやる。
とか
お客さんが喜ぶことをする。
とか、なんとも都合の良い考え方をしていたものでした。
自分が表現したい音楽がなんなのか?
自分の音楽とはなんなのか?
それを表現してこその演奏会なのに、
それを見ないようにして、出来る限りの事をと言いつつ、
最低限出来る事だけをやった演奏会になっていました。
それに気づかずにいました。
まさに一年の時にTさんに言われた質問、
「なんで音楽をやってるんだい?」
この質問に答えれてない演奏会をおこないました。
このことに気づいたのは卒業してから。
働き始めて、音楽からすこし離れた頃でした。
楽器というものは、
吹く機会を失うとなかなか練習できなくなるものだと知りました。
そのころは草加から上野まで電車通勤していて、
楽器を演奏する機会もなくなり、練習もしなくなりました。
しかし、まだ練習する機会は残っていました。
管弦楽部になっても、まだ吹奏楽がやりたいという人間がけっこういたので、
OB・OG・現役学生の有志を募って、
「プロジェクト」という企画を卒業する前から行っていたのです。
私が卒業してからもこの企画を動かし続けていたので、
月に一回は楽器に触れる機会を得ることが出来ました。
「プロジェクト」のコンセプトは
「オトナの吹奏楽をやろう。」でした。
練習を重ねていくうちに曲が絞られていき、
最終的にホルストの一組と二組を中心に練習していくようになりました。
そして、この「プロジェクト」はホルストのHを付け加え「プロジェクトH」、
通称「PH」(ペーハー)と言う名前になりました。
一つの音楽を突き詰めて練習を重ねていく。
この練習会はだんだんと大きくなり、
最終的には演奏会と言う形になり幕を閉じました。
このときに、
「演奏会と言うものはこうあるべきなんだ」
と、感じました
私が卒業して半年経ってから、
自分の演奏会が至らなかったのだと思ったのでした。
~~~ 続く ~~~